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保栄茂グスク

保栄茂の集落の北東側の高いエリアを目指して登っていくと、保栄茂グスクへの案内板があります。専用の駐車場はありませんが、路肩に駐車可能なスペースはあります。

保栄茂グスクへの案内板

コンクリートで舗装された幅約1.5mほどの歩道が200mほど続いています。

保栄茂グスクへ続く山道
この模様のコンクリート山道を進みます

頂上まで跡少しという所に、少し開けた場所があり、 緑色のサイン と、保栄茂グスクの說明が書かれた石碑があります。また、すぐ近くに、「未生の縁記念碑」も建っています。

サインの左側に、ハンドレールがついた階段があり、それを数10mほど登りきると頂上です。

頂上からは、360度見渡すことができる世界が広がっています。

保栄茂グスク・案内文

保栄茂グスクは、保栄茂集落の北東側に位置する標高106mの丘陵上に形成されたグスクである。

『豊見城村史(1964年刊)』によれば、三山時代、中山に退治する第いせんの拠点である、瀬長、豊見城、長嶺の各グスクに対し南山グスクからの中継地としての役割を持つ出城ではなかったかと考えられている。

グスク内北河に所在する「殿(トゥン)」と呼ばれる広場は、『琉球国由来記(1713年)』にも記載され、毎年旧暦の5月ウマチーおよび6月ウマチーの日には字の神人(カミンチュ)、役員、各門中の人々が集まって神酒や供物が供えられ、祭祀が執り行われている。

これまでに実施されたグスク内の試掘調査では、建物の「柱穴跡」と、煮炊きを行ったと思われる「炉跡」が発掘され、その炉跡からは炭化した米や麦が検出されている。また出土遺物としてはグスク系土器をはじめ、青磁、白磁、陶器類の輸入磁器や鉄製品などが出土している。出土遺物の中でも13世紀頃の青磁片が確認されていることから、グスクの成立および活動時期は13世紀後半から15世紀までの幅が考察される。市内にある長嶺グスクや平良グスクなどとも時期的に重なることから、三山時代の南山の出城的性格を持つ城砦ではなかったかと推測される。

また、琉球王府時代に首里城内で中国の冊封使歓待のおり上演された組踊「未生の縁(みしょうのえん)」の舞台設定はこの保栄茂グスクとなっており、2003年(平成15)には、沖縄戦当時、日本軍によって陣地が構築され「監視哨」など戦争遺構の一部が現存している。

保栄茂グスクの場所

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