豊見城市饒波集落にかつてあった龕屋の跡地です。龕屋(ガンヤー)とは、なくなった人をお墓に運ぶ、お神輿のような道具「龕」を保管しておく建物です。
跡地には、大きな松の木が生えていますので、その松の木を目印にすれば、すぐに到達します。
案内文によれば、この龕屋に保管されていた龕自体は豊見城市歴史民俗資料展示室に寄贈れてたとのこと。さらに、龕を保管していた建物も取り壊され、現在はその土台しか残っていません。
現在は「龕屋跡」とかかれた石碑と、土台の一部分と思われる石積み、龕屋についての詳しい說明が日本語と英語で書かれた案内板があるだけです。
饒波の龕屋についての案内文
この場所は、字饒波の「龕(がん)」を保管する建物「龕屋(ガンヤー)」の跡地である。龕とはかつて葬儀の際に死者を運ぶために使われた屋形型の輿(こし)のことで、現在で言う霊柩車のようなものである。龕本体には、蓮の花やお坊さん等、仏教に関する絵が描かれ、屋根部分にはシャチホコや鳥などの装飾が施されている。全体が朱色で菜色されていることから「アカンマ(赤い馬)」と呼ばれたり、ガンやコーと呼称されたりしている。
字饒波では、かつては野辺送り(ソーローウトゥム)の際、龕に死者を納め、チューフーと呼ばれる漕手達によって家から袴で運ばれていた。また地元だけでなく、龕を保有していない平良、高嶺、金良など周辺集落にも貸し出された。戦前の龕は沖縄戦の際に失われたため、1952年に南風原町津嘉山の大工に作成依頼し再建されたが、その後は火葬の普及により、1967年頃を最後に使われなくなった。
龕が使われなくなっても、毎年旧暦8月9日には「龕の祝い(コーヌユーエー)」として祈願が行なわれている。この日は龕を新調した日とされ、龕の修復点検とともに住民の健康や長寿を祈る。特に卯年のコーヌユーエーは、十三年マーイといって盛大に行われる。龕屋に線香15本、酒、重箱料理、豚肉(卯年には鶏二羽が加わる)、赤饅頭を供え、不幸が続き頻繁に龕屋を開ける事のないように字民の無病息災を祈願する。
字饒波の龕屋は集落の西端入り口に位置しており、隣字高安の龕屋と近接していた場所にある。市内において隣同士の集落で龕を保有しているのは、饒波と高安のみである。饒波の龕屋は長年の役目を終えたため、2014年に龕屋跡地として整備が行なわれたことに伴い、龕本体は豊見城市教育委員会に寄贈された。解体前の龕屋は、琉球石灰岩を切り出した石材で石垣や土台が作られ、屋根部分はコンクリートの平屋根が付けられていた。戦前~戦後しばらくまでは赤瓦で葺いた屋根であった。
この場所は豊見城村のかつての葬制と地域の関わりを知る上で貴重な場所である。
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